2026年09月08日
7月7日に、本学千代田キャンパスに併設する一橋講堂中会議場にて、第6回となる一橋大学サステナビリティ経営研究会が開催されました。今回は公益財団法人阿蘇グリーンストックより専務理事の増井太樹氏をお招きし、「阿蘇草原が育む自然資本と企業価値」というテーマでご講演をいただき、その後、参加者の皆様と討議を行いました。一部を抜粋してご紹介いたします。
公益財団法人阿蘇グリーンストック 専務理事
増井 太樹氏
阿蘇の自然資本の根源/
"6つの価値" 水源涵養、炭素固定、生物多様性、文化・教育、観光や景観、農業(放牧・草資源)
一般的に自然状態で草原が成立する年間降水量は1,000mm以下といわれています。日本のほとんどの地域が温暖湿潤気候で降水量が多く、自然状態としては森林となります。しかし、阿蘇においては、自然に対して人の働きかけ(野焼きや採草、放牧)をすることによって草原を維持しています。阿蘇の野焼きの歴史は古く、地層に残る灰から1万3000年前くらいから行われていたことが推測されています。
阿蘇草原の恵みとして「水」があります。阿蘇で行われた研究では草原は森林(人工林)よりも地下に水を染み込ませやすい特徴を持つことが分かってきました。これは草原のほうが森林に比べ樹冠遮断とよばれる水の量が少なく、蒸発散量は草原のほうが森林よりも少ないためだといわれています。このようにして地下に染み込みたくさんの湧水となって阿蘇をはじめ九州の様々な河川の源流として機能しています。自然資本の価値という視点でも関心が高い阿蘇の草原管理は、水資源を通して阿蘇流域に進出する半導体企業だけでなく、地域に暮らす約500万の人々も支えています。また、阿蘇の草原は野焼きをすることで土壌に炭素を蓄える「炭素固定」により、1年間に阿蘇地域の全家庭が排出する二酸化炭素の量の1.7倍の炭素を、毎年地中に固定していて地球温暖化防止にも貢献しています。さらに多くの希少な動植物が生息していて、絶滅危惧種のヒゴタイ、ハナシノブなどの植物もあり、これらの草原植物は多様な昆虫や野鳥が生息する環境を育んでいます。
熊本県が実施している"県民総幸福量(Aggregate Kumamoto Happiness)"調査では、阿蘇地域では幸福度の指標の中でも「地域への誇りがある」という回答が一番高くなっています。雄大な阿蘇に住んでいるということが自己肯定感につながっているようで、こうした文化や教育は、地域の持続性を考えても大事なことだと思っています。また、阿蘇の景色を楽しみに来訪する外国人観光客も多く、観光消費額やこの地域に及ぼす経済効果も高く、地域経済の持続性といった観点からも草原は非常に価値があります。
阿蘇の草原は、農業(放牧・草資源)によっても維持されています。しかし、近年阿蘇の草原を支えてきた、あか牛の生産が減り続けています。地域の産業がなくなるということは、地域の担い手がなくなるということです。牛がいなくなれば草原を使う「目的」もなくなり、草原を「使う人」もいなくなるということで、草原維持が困難になってきているのが現状です。一方で、先ほど説明した、水源涵養機能や炭素固定機能、生物多様性の保全といった生態系サービスや観光などの新たな地域産業はいまのところ草原維持の駆動力(人的、資本的な価値提供)にはなりえていません。社会システムの変化というものが、景観を変えているという話だけではなく、経済及び社会変化と自然を維持する仕組みが再構築できていないという点が、非常に問題があると考えています。
社会システムの危機/
「受益と負担の非対称」が、今の阿蘇の一番の問題
阿蘇の草原の今後を考える上で重要な視点がいくつかあります。例えば、その一つとして、一度失われた"自然"や生態系を維持してきた"地域住民の伝統的な技術"を取り戻すことは、大変困難であると言えます。
昔は放牧や採草など資源をその場所で調達して、地域の暮らしの中で使うことで草原の維持がされていました。地域住民の伝統的な技術も、その長い歴史の中でアップデートされながら受け継がれてきたものです。しかし、地域で野焼きをしていた人たちの高齢化も進み、担い手が減ってきて、地域の中での伝統知が急速に失われています。草原を維持する仕組みは、社会の仕組みと大きく関わっていて、社会変化にあわせて草原を維持する仕組みやプレイヤーも変わっていくことができれば草原も維持し続けることができるかもしれません。問われているのは地元の人たちが頑張れということではなくて、「社会の仕組み」を再設計する必要があるのではないかということなのです。
また、自然資本の価値やサステナビリティが社会の注目の的になっていますが、その自然資本の恵みを受けている人は"誰で"、それを維持している人たちは"誰か"というところの公平性の観点が、非常に大事だと思っています。九州全体で考えると阿蘇流域には大変多くの人々が暮らしていて、産業についても時価総額数百兆円もの大企業も進出し、今まさに半導体で非常に盛り上がっているわけです。このように阿蘇の自然資本の価値というのは莫大なものがあり、多くの人を支えています。一方で、この草原を維持している人というのは、地域住民や牧野組合(阿蘇地域において草原の維持管理を共同で行うために集落単位で組織された農業団体)の約8,500人です。毎年秋に防火帯作り(輪地切り)をして、春には野焼きを行っています。この野焼きに向けた防火帯作りの総延長は、阿蘇地域全体で約500〜580kmにも及びます。
野焼きはこの途方もない距離の防火帯作りを秋から冬にかけて行い、そして春の野焼きの当日には火が延焼しないように見守らなければなりませんし、ケガなどのリスクも伴うこともあります。そこまでして「野焼きを続けなければいけないのか」というのが、地元の方の問いなんですね。野焼きの作業自体は、地域共有の財産である草原を守るための「共同作業やボランティア」として行われるため、地元の方への直接の収入にはなりません。でも続けてくれと言われている。先祖代々続けてきているから、自分の代でやめるのは忍びないという思いもあり、なんとか踏ん張っているがもうやめてしまおうかと考えているという声も聞かれます。
受益と私的負担の解消が、一番のポイント/
「九州の水を育む阿蘇の守り手基金」の設立
この先もずっと、地元の人たちだけが草原保全の負担とリスクを抱えるということになれば、担い手はやめてしまいます。"受益は広く、負担は狭い"この非対称が阿蘇の草原の問題の核心です。私的負担の解消をすべく、さまざまな取り組みを行っていますが、考える視点としては都市も阿蘇地域も共に豊かになる未来が根底にあるべきだと考えています。自然を維持している人たちまで思いを巡らしていただけると、制度設計や仕組みが上手く回るのではないかと思います。
私たちも「野焼き"支援"ボランティア」として、地元の方々だけで草原維持ができない時に、"支援"に入るというような形で取り組みをしています。支援を始めてから25年間、ボランティアの派遣は右肩上がりで増えてきています。これだけ地域の役に立っているという半面、多くの支援がなければ草原維持ができないようになってしまったということです。そこで阿蘇グリーンストックは、地域の人たちが野焼きをするメリットになるような仕組みを作らなければならないということで、"水"を視点に「九州の水を育む阿蘇の守り手基金」を昨年、熊本県と共に設立しました。まだまだ不十分なところもありますが、生物多様性の"水"を切り口にして、企業などから寄附を集めています。
寄附で大事なのは透明性
この「九州の水を育む阿蘇の守り手基金」では、企業や個人からの寄附を100%現場(地域)に還元したいという思いで始めました。こういう寄付を求めると、そのなかから事務費を取るのが一般的だと思うのですが、それでは私は透明性は担保できないと考えています。この寄付で行いたいのは地元で草原保全に汗を流す人たちへの支援であって、私たちの活動に対しての支援は別に求めればよいと考えています。寄附者に対しては寄付金額に応じて貢献度を評価して貢献証書を発行しています。これについても、私たちではなく熊本県にしていただいています。例えば、寄附に対してどれくらい草原が保全できて、その結果、どれくらいの水が涵養できたかというのを定量化して、企業や個人に貢献証書をお渡ししています。これは企業のサステナビリティ評価を可視化することにもつながっています。
私たちが作った小さな取り組みですが、熊本県による第三者評価が開示の信頼性を高めたり、透明性を高くするところで、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)の枠組みに沿った、説明可能な取り組みとなっています。7月に熊本で催された「グローバルネイチャーポジティブサミット2026」では熊本宣言が出され、「人々にポジティブな未来を実現する唯一の道は、ネイチャーポジティブな未来を築くこと」と締めくくられています。
私自身が大事だと思うのは、その場所の自然の中に身を置くということです。"想い"を理屈で話したところで、理解してもらうのは難しいかと思います。ぜひ阿蘇の自然に触れて、感じてみて、そこに暮らす人たちにも思いを馳せてもらえればと思います。
【関連サイト】
公益財団法人阿蘇グリーンストック
熊本県「九州の水を育む阿蘇の守り手基金」
【関連記事】サステナビリティ経営研究会
第1回 味の素グループのサステナビリティの取り組み
第2回 三井化学グループのサステナビリティの取り組み
第3回 カディラキャピタルマネジメント株式会社―上場株投資におけるインパクト統合について
第4回 一橋大学創立150周年記念シンポジウム/非財務情報を企業価値に結び付けるサステナビリティ経営の実践
第5回 EY新日本有限責任監査法人―サステナビリティと企業価値のコネクティビティ